中山寺の歴史

  • 聖徳太子の像『聖徳太子勝鬘経講讃坐像』
    当山所蔵:一般非公開

    聖徳太子創建 日本で最初の観音霊場

    北摂の地に紫雲たなびくといわれる中山寺は、聖徳太子の創建によるわが国最初の観音霊場です。第十四代仲哀天皇の先后大中姫(さきのきさきおおなかひめ)、その長子麛坂皇子(かごさかのおうじ)、弟忍熊皇子(おしくまのおうじ)の追善供養のため、あるいは聖徳太子、蘇我馬子との政争に敗れた物部守屋の霊を鎮めるために建立されたと伝わっております。

    奈良時代には大小多数の堂塔伽藍を備え、高野山や比叡山に匹敵する大寺院であったと『続日本紀』に記されています。幾度の兵火や天災に見舞われながらも、源氏や、豊臣家、徳川家など時代の有力者たちの熱心な信仰と寄進によって現在の伽藍が形成され、一四〇〇有余年の法燈を守り続けています。

  • 一三〇〇年の歴史を持つ 西国三十三所 縁の地

    中山寺は、近畿二府四県と岐阜に渡る観音巡礼の道、西国三十三所の第二十四番札所であります。養老二年、大和国長谷寺の開祖徳道上人が病で仮死状態になった際に冥土で閻魔大王にお会いになり、「生前の悪行によって地獄へ送られる者が多い。観音霊場へ参り功徳を得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受けました。その証拠となるよう閻魔大王の御宝印と起請文を授かり現世へ戻り、観音信仰の流布に努められましたが、当時は世に浸透せず、巡礼は発展しませんでした。徳道上人は巡礼の機が熟するのを待つため、御宝印を中山寺の石の櫃(からと)に納めました。

    その後、第六十五代花山天皇が退位後仏門に入られ、石の櫃から御宝印を取り出し西国三十三所を再興された際、現在の二十四番札所に定められました。

    御印文『御印文』
    当山所蔵:一般非公開

  • 観音さまの像『十一面観世音菩薩立像』
    当山所蔵:毎月18日御開扉

    女人救済の
    十一面観世音菩薩

    中山寺のご本尊にはさまざまな由縁がございますが、現在まで語り継がれている寺伝をご紹介いたします。

    古代インドのアユジャ国王妃勝鬘夫人(しょうまんぶにん)(シュリーマーラー)は、『勝鬘経(しょうまんぎょう)』の主人公でもあり、在家の身ながらもお釈迦さまにその聡明さを認められておりました。その勝鬘夫人が女人救済の誓願を立て、自らを模して刻まれた三国伝来の尊像が当山の「十一面観世音菩薩立像(じゅういちめんかんぜおんぼさつりゅうぞう)」であります。

    後に聖徳太子が『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』を記し『勝鬘経』の功徳を説かれたことからも、中山寺の観音さまの霊徳を窺い知ることができます。

  • 豊臣秀吉の子授け祈願を 叶えた求子・安産の寺

    中山寺と豊臣秀吉・秀頼には深いつながりがあります。寺伝によれば豊臣秀吉はかねてより当山を信仰しており、朝鮮討伐の際に寄進されたと伝わる宝塔が残っている事からもそれがうかがえます。五十歳を過ぎても世継ぎができなかった秀吉ですが、当山で熱心に祈願したところ秀頼を授かり、その崇拝はますます篤くなりました。

    ほどなくして秀吉は病により亡くなってしまいますが、息子の秀頼は母の淀君と共に、秀吉の供養と自身誕生のお礼参りに当山を訪れます。その際、秀頼が「豊国大明神」(秀吉に下賜された神号)と書して奉納したとされる軸が現在も当山に保管されています。

    また、慶長八年には片桐且元に命じ、戦火により荒廃していた伽藍の再建を行いました。これが現在の伽藍であり、当時の棟札が現存しています。

    木の札『本堂ならびに諸堂 慶長八年再興棟札』
    当山所蔵:一般非公開

  • 中山寺のロゴ中山寺のロゴ

    日本で唯一の 「明治天皇勅願所」

    当山は、古くから武家・庶民を問わず、安産祈願のお寺として知られてまいりました。ことに幕末の頃、明治天皇の御生母である中山一位局が、当山の「鐘の緒」を受けて明治天皇を御平産されてからは、日本で唯一の「明治天皇勅願所」となりました。以来、当山の霊徳はますます高まり、安産を祈る方々に全国からお参りいただいております。